2016年12月 師走

 師走の由来は、年末に「師(僧)」に自宅に来てもらい、お経を唱えてもらうという風習から来たものと理解してきたが、諸説ある中、一番信頼のおける説は、実は「当て字説」であるという。これは、日本書紀や万葉集などの書物には、十二月(十有二月)を「シハス」と呼んでいたとされる記述が残っており、これが、やがて、師走に充てられたというもの。また、十二月には、別の呼び名もあり、極月、臘(ろう)月、茶月、厳月、除月、氷月、春待月、梅初月、三冬月、暮古月、年世積月などなど・・・。

 日頃、当たり前のように使っている言葉には、本来、全く知らない語源があったり、誤用があったりすることを改めて知った。

 しかしながら、やはり12月は、なんだか慌ただしい。一年お世話になったご挨拶、忘年会と称して、飲み会も多い。一年でやり残したことを来年に持ち越さないで、なんとか年内に片付けてしまおう。など色々な思いが錯綜し、心も、体も多用になる。日頃の飲み会はなかなか参加できなくても、忘年会となれば、なんとか都合をつけて参加する人もいる。しかしながら、翌月には、新年会がある。昔は、年末のご挨拶と年明けのご挨拶と二カ月連続で、顧客訪問するのが常であったが、バブル崩壊後は、「まあどちらか一つで」という風潮が、なんとなく定着してきた感じがするのは、私だけであろうか?

 毎年送っている年賀状は、12月15日から25日までに投函すれば、必ず元旦に配達するという郵便局の告知がある。そのようなニュースも、なんとなく日々あわてさせるような要因になってはいないであろうか? 私は、長らく家族写真を年賀状にしてきたが、過去、一度だけ、なかなか家族がそろわず、元旦に写真を撮り、急ぎ自宅のプリンターで印刷して、投函したことも思い出深い。年賀状と言えば、もう何十年もあっていない友人&知人と、年に一度のメッセージ交換をすることが多くなってきた。たぶん、お互いに、「今年はもういいかな・・・」と出すのをやめると、先方から届き、返信する。それを繰り返しているうちに、またまた恒例化して、「今年は会いたいね!!」と毎年同じことを書いているような気もする。しかし、これだけで、半世紀近く続いているのは、自分でも脅威であるが、ここまで来ると止められない自分がいるのも事実である。この年に一度の年賀状という習慣がなければ、とっくに縁が切れている知り合いが大勢いいるだろう。見方を変えれば、自分の生い立ち、歴史を刻み、現在の自分を形成してきた大切な一部であることに変わりはない。片思い的に、一方的に出し続けている相手もいるであろう。出した枚数だけ、戻ってくるわけではないが、おおよそ6割くらいは、返事をいただけていることは、やはりうれしい。亡父は、86歳で旅立つまでは、社会から引退しても、300枚強の年賀状を出していた。人によっては、「もう高齢なので、この習慣を終わりにする。」と宣言される方も今まで、何人もいらした。いずれ自分もそうなるのか?父のように、最後まで、出し続けるのか。現実、出す喜び、受け取る喜びがあることはわかるが、受け取らない寂しさを考えると、やはり自分は、出し続けていくであろうと想像できる。

 さて、話は、戻るが、「師走」のように、年末だから先生(師)も走り回ると信じ込んできた自分であったが、今回のこのメッセージを書くにあたり、改めて、確実な由来を調べてみてみようとして、諸説、他説に出会った。日頃何気なく、当然のように使ってきた言葉を、改めて、知る大切さを痛感した。言葉の持つ意味、その背景&由来、その大切さ、来年は、そんなことを気をつけながら過ごしてみたいと思った。

 来年は、「酉年」。この年は、商売繁盛に繋がると考えられているという。「酉」は、「取り込む」に繋がるといわれ、そこから運気もお客も取り込めるという。また別の由来には、「果実が極限まで熟した状態」と言われ、物事が頂点まできわまった状態。払いごと、学問&商売などで成果が得られるという年だそうだ。

 新しい年を迎える前に、来年は、言葉を大切に、自分の人生を築いてきた人との関係を改めて見直し、振り返り、さらには、言葉を大切に、より充実した人付き合いを続けていきたいと思う。

 みなさん今年も一年ありがとうございました。健康で、明るい年をお迎えください。

平成28年12月吉日

悟空の里主人 金森 悟

●2016年11月 北海道開拓使
●2016年10月 少子高齢化のゆくえ
●2016年09月 都内観光
●2016年08月 携帯アプリ
●2016年07月 おふくろの味
●2016年06月 青少年育成
●2016年05月 出雲大社