2021年03月 10年経過ということ
3月11日、東日本大震災から10年が経過した。
私は、その時間、新宿の映画館にいた。大きな揺れに、上映は中断、館外退去。これはただ事ではないと、すぐにでも帰宅しようと。車を止めてきたビルまで移動する途中、コクーンビル(トウモロコシのような形)という高層ビルが大きく揺らぐのを横目に、新宿中央公園に向けて大勢の人が避難していた。首都高入口は閉鎖され、一般道で国分寺へ。甲州街道は大渋滞で、通常の何倍もの時間をかけて調布近辺までたどり着く。そのころJRが全線運休の情報に、東京駅近くに勤務する娘を迎えに都心へ戻る。途中、繋がりにくい携帯電話で連絡を取り合う。娘はビルの10階にいて揺れで気持ち悪くなるというので、娘の会社近くにあるホテルの知り合いのコンシェルジュを訪ねて、安全な場所で待機させてもらうように指示。想定外の渋滞で4~5時間ほどかかりピックアップ後、自宅へ戻ろうとすると、池袋で飲み会をしていた息子から、電車が止まったので、迎えに来れる??と電話。有楽町から池袋へ向かうが、日頃、10分程度で行ける竹橋まで一時間半ほど。そのうち、息子は電車が動き始めたから自分で帰ると。帰路、トイレ&水分補給休憩しながら、自宅には明け方の5時過ぎに到着。地震発生後、13時間以上運転。たまたまその日の朝にガソリン満タンにし、携帯充電器搭載。車の走行&携帯の電池切れの心配なく行動ができた。
その後、ある研究会の活動で、岩手県大槌町の被災地訪問、気仙沼・陸前高田・南三陸町、釜石市なども訪れ、津波復興祈念館・奇跡の一本松など当時の被災の記録を見学し、鎮魂に手を合わせた。大槌町とのご縁から、流された町立図書館の再建に本が欲しい。というリクエストに、友人にも声掛けをして、大人から子供向けの本をお送りできた。
26年前の阪神淡路大震災では、ボーイスカウト活動の一環で、兵庫県芦屋市の芦屋公園にテントを張り、被災地視察・救援物資運搬のお手伝いに参加した。日本は、この大災害をきっかけに、全国からのボランティア受入れに始まり、被災地支援の経験が積まれたと感じる。しかし東北は、大都会での災害と違い、大きな津波と原発爆発と新たな試練が重なった。大槌町訪問の際、三陸鉄道リアス線の「浪板海岸駅」&線路が流されていた。その線路脇の大きな石碑には「津波が来たら高台へ逃げろ。この位置まで津波が来たから海側には住むな!」などと注意書きが刻まれていた。そこは海岸から約200m。海側の我々が泊まったホテルはじめ多くの施設があり津波の犠牲になった。被災後、駅の場所から山へ200m程の位置に仮設住宅が建設され、近くには有名な「風の電話」も設置された。建設された高い堤防で海を眺めることは難しくなった。
何十年に一度は、大きな地震が襲うといわれ、災害・犠牲者の記憶が薄れないように、石碑も立てられた。しかし人間は、経済活動&社会生活など、安心安全を過信して同じ過ちを繰り返している。日本は、地球の4つのプレートにまたがり、地形的にいつでも地震が起こる。さらに活断層があり、阪神淡路&熊本地震と大きな被害も起きた。加えて、年々大型台風の被害が拡大。さらに、2020年には、新型コロナが世界中に蔓延。感染者、入院患者、死者の増加は収束せず、ワクチン接種もスタートしたが、先は見えない。
知人のお店で働くスタッフに、10年前はどうしていたの?と尋ねると、「小学校6年生で、卒業式の準備していました。」と。月日の経過は、人の成長を見れば驚くほどの時間を感じる。人類は、戦争、災害などの教訓を語り継いできた。先人の教えを忘れずに継承し、ひとりの命から大切にしたいと強く心に刻んだ。
令和3年3月吉日
悟空の里主人 金森 悟