2013年10月 観察力と表現力

 最近、俳人とプロカメラマンと話す機会があった。以前からの知り合いであるが、彼らの作品づくりについて話を聞く機会はほとんどなかった。また亡くなった父が短歌の会をずっとやってきており、遺詠を見ながら、こんな気持ちを持っていたのか。と生前を思い返す懐かしさも感じた。
 俳句、短歌、写真。私には、殆どご縁がない世界である。しかし彼らと話をしているうちに、物事に対する観察力と表現力に、普段なんとなく生きている自分と決定的に大きな差があることに気づかされることになった。プロからすれば、それは違うというポイントかもしれないが、全く素人の私の感想である。
 まず普段の自分であれば、物、景色、人物を見るときに、きれい、美しい、悲しい、爽やか等々、ありのままの表現で済ませてしまう。しかし彼らがそれを俳句・短歌、写真の題材として使う時、目に映る光景だけではなく、それを表現する際に、彼らの目からどのように見えたか?、それをいかに表現したいか?、他人にどのように伝えたいか?という大きなフィルターがかかるという感じがする。それぞれの作品を見ると、こんな見方があるのか?こんな風に見えるのか?と、目を疑うくらい、自分では気づかない観察力と表現力を目のあたりにする。なぜこんな見方が表現ができるのか??
 このニュアンスを文章で表現するのがなかなか難しいが、俳句・短歌であれば、物を見て何を感じたかを人に伝える。その際に、ストレートに、また遠まわしに、自分の感じ方を相手にも感じさせる言葉を巧みに使い表現する。シンプルにいえば知的な遊びとして行われるのではないだろうか? そのためには、ひとつひとつの文字、言葉にどんな意味があるのかを知り、その使いまわしも必要になってくる。それを限られた文字数など一定のルールに基づいて表現する。この人たちは日頃どんな生活をされているのであろうか??、もし自分が経験してみようと考えた時、あまりの経験のなさに、彼らは異次元の世界を生きている感じがするのは私だけであろうか?
 プロカメラマンは、ある写真雑誌を編集されていて、その中に投稿されている多くの人の作品を見せてもらった。花、山、川、人、街並みなど、どうしてこのようなアングルから、このような表現ができるのだろうか?と自分の発想には、全くない世界が広がっている。プロの話を聞いていくと、カメラのレンズ、絞り、シャッタースピードなどを使って、自分が表現したいゴールにたどり着くために、その機能をフル活用してゆく。たとえば、目の前の花を撮影するのに、その被写体だけをフォーカスをするために周囲を「ぼかす」。ある川の流れを写すために、空&雲を入れたり、通りがかりの人物を隅に入れたりして、より季節感を感じさせるとか・・・。絞りとシャッタースピードの組み合わせは、少し変えるだけで、ここまで表現が変わるのか!?と思わせる変化がみられる。いずれも人間の目の機能では、追えないスピード、光の取り込み方で撮った作品は、カメラならではのものだと感じる。あるカメラマンのかわいらしい子供を写した作品評の中に、「写真としては、まとまっているが、家庭の思い出のスナップ写真としてはいい。ただプロの作品としては、子どものかわいらしさだけを表現するだけではなく、その場の雰囲気、楽しさなど、見る人に何を感じさせたいかが伝わってこない。」と。自分では、そのような目的でシャッターを押したことはないが、もしこのポイントを心掛けるのであれば、人&物への見方・観察力を、普段とは明らかに違うモードで頭を働かさなければいけないと思う。さてそれを自分がやってみようとしても容易にできるものでもない。
 この欄のメッセージを毎月15年以上書いてきた。日頃、街中を歩いているときも、何か題材がないか?と自然にアンテナを張り巡らせてきた自分がいる、しかし俳句&短歌を詠む、写真を撮るといったことを習慣にする人は、何かを見るときの興味の持って行き方、観察力、そして表現力は、日頃の心の持ち方、鍛錬&積み重ねがあるからこそできる感性に違いない!と痛烈に感じた。同じ世界に住んでいながら、見え方、感じ方が違う。どうせならば、見過ごすだけではなく、深堀してみるのも悪くないと思った。みなさんもぜひお試しを!!

平成25年10月吉日
悟空の里主人 金森 悟

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●2013年06月 庭いじりに挑戦!
●2013年05月 ルーツをたどる
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