2013年02月 風化と復活の力

 約30年ぶりに、熊本からフェリーに乗って、長崎県島原市を訪れた。熊本港出港と同時にかもめの大群がフェリーを追いかけるように舞う。我々の訪問を歓迎してくれているような素敵な光景であった。きっかけは、10歳年上のとってもパワフルな兄貴分のような大学の先輩との東京での出会いである。今回、ビジネスチャンスをいただき、訪問する機会を得た。
 島原は、約22年前の雲仙普賢岳の大火砕流(1991.6.3)があった地である。火砕流が迫りくる映像は、今でもはっきり脳裏に残っている。当時、小学生、社会に出て間もなかった近隣の方々の話を伺ったが、その時の恐怖は一生忘れられないと口をそろえて話をされた。一方で、街中を車で走ると、住宅が立ち並び、溶岩・火砕流が流れて行った痕跡は残っていないように見えた。(一部には、火砕流に飲み込まれた小学校の校舎がそのまま保存され、10年前に「雲仙岳災害記念館」を建て、当時の記録と火山脅威を展示している。)忘れられない出来事ではあったが、日常生活の中では、「そんなことがあったな・・・」と、当時を振り返ることは少ないとも言われる。しかし、これは災害の記憶が風化されたわけではなく、心の奥深くに刻み込まれ、しかし、前を向いて生きて行くために、立ち上がり、復活してきたからこそ出てくる言葉なのだろうと感じた。また、この地の復興の早さは、被災地域が限定され、行政をまたぐこともなく、迅速に復興支援金が、地元・住民にも配られたからこそとの話も聞いた。また私としては、初めて知ったことだが、この災害で43人の方がお亡くなりになった。しかし当時、避難勧告区域へ報道関係者(16名)の強引な立ち入りがなければ、死者は、半減したと、当時を振り返る。それは、報道関係者の警戒にあたり火砕流に巻き込まれた消防団員(地元の若者)、警官、タクシー運転手など地元の人。当初は、住民は適切な避難をしていたにも関わらず、外からの人を守るために命を落とされた悔しさは消えないのであろう。しかし現実は、過去を日常で語ることは少なく、皆、立ち上がり前に進んでいる。
 改めて、自然災害について目を向けてみると、その後も、多くの災害が続いている。阪神淡路大震災(1995.1.17:死者6,437人)、東日本大震災(2012.3.11:死者不明者約26,000人・・・これは1896年三陸地震・津波の死者不明者約26,000人に匹敵するという。1923年の関東大震災の死者約105,000人に次ぐものである。)災害規模は、どうしても死傷者の数で語られることが多いかもしれないが、ひとりの人の命の重さはいずれも同じであることを改めて心に刻みたい。
 島原での滞在を終え、福岡に移動。30年前に就職した前職同期3人と再会した。ふたりは、約25年前に転職をし、出身地福岡へ戻って働いている。そのうちのひとりが、昨年、突然伴侶を亡くした。すぐにでも彼と一献やりたいと思っていた矢先の九州出張に、延泊することにした。それぞれの道を進んで25年。同じ会社の借上げアパートに暮らした仲間でもある。彼は、飲みながら「ひとりになると、気が狂いそうになるくらい寂しくなるんよ!」、「でもこうやってあの時の仲間がいるん。一人ぼっちじゃないんだ。」と。約30年前に、社会人として家を出て、全国から長野県諏訪市に集った仲間との絆を温かく受け入れてくれたことはうれしかった。「ずっと友達やん!!」この絆は、何年離れていようとも風化することはない!その心はいつでも復活し、瞬時に20-30年の歳月を飛ぶことにも感動した!
 人の思いは、風化しない!日々生きていこうという原動力は、夢や願望を達成しようという気持ちから生まれてくると思う。苦しく悲しい過去を忘れることはできない。忘れてはいけない過去もあるであろう。しかし、それがあるからこそ前に進める。大切なことは、起き、立ち上がること、前に進むこと。この行動は、自らが心で決めて、動くことから始まる。
 今回の島原&福岡訪問は、消えかけていた心の何かに火をつけてくれた感じがする。M先輩との出会い。人生すべてに無駄はなく、つながっていると強く感じた日々であった。みなさんも一瞬一瞬、ひとりひとりの出会い、思い出をいつまでも大切に!!

平成25年2月吉日
悟空の里主人 金森 悟

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