2011年11月 記すこと

自分の考え、行動を日記などに記すこと。皆さんにも経験があるだろうか?
昨今、普及してきているフェイスブックというコミュニケーションサイトがある。「友達」グループを作り、今日は、どこへ出かけた、何を見た、何をしている、こんなことに感動した!・・・などのメッセージをwallというところに書き込み、それに共感する人たちが、それにコメントをくれる。携帯電話、パソコンからも手軽に扱うことができる。これらは、実際、何を目的にしているのであろうか? 私が、ここ十数年、自分のホームページに、毎月のメッセージを書き記すのも、何を目的としてきたのか、改めて問いただしてみたくなった

先日、大阪にある「適々斎塾」(適塾)を訪問する機会があった。1838年、緒方洪庵により蘭学を学ぶ塾として開設され、幕末から明治維新にかけて、日本に大きな影響を与えた人材を輩出した。福沢諭吉は、開塾から17年後に入門し、その後塾頭になる。1858年には、現在の「慶應義塾」を創立している。緒方洪庵の日記とも言える貴重な資料を拝見した。緒方洪庵が奥医師として、江戸で、第14代将軍・徳川家茂、正室・和宮、天璋院の診察をした記録も生々しかった。また、江戸に黒船が来航した嘉永6年(1853年)6月3日から1週間ほどで、その報が大坂にいた緒方洪庵の耳に届いていたとの記述も見られた。

そのときは、単なる個人の日記であったかもしれない。しかし、歴史上、功績を上げ、名を残した人物の記述は、現在では、貴重な歴史資料として意味がでて、語り継がれている。

自分の行動&考え方などを記したことを後世に伝える。自分自身そんなに立派な地位を持つわけでもなく、現世、後世に影響するものでもなかろう・・・。と、冷静に考えると、記すことは、あまり意味がないのではないかとも思う。ただし、見方を変えて、自分が今何を感じ、考え、行動し、これから何をしてゆくのか?などの心の動きを、数年、10数年、数十年経過して、自分自身を振り返ることのできる大切な資料とはならないであろうか?「自分史」として、記すことは、自己満足で終わってしまうかもしれないが、大切な意味を持ってくるのではないかと思う。

ところで、先に取り上げた、フェイスブック、ホームページなど、書いている本人が元気なときは問題がないが、この世にいなくなった後は、それは、データーとして廃棄&消滅してしまうのであろうか?150年経過しても現存する緒方洪庵の日記。最先端の電子化された記録。さらに150年経過したときに、残るのは、前者の記録だけになってしまうのでは?という勝手な不安を感じるのは私だけであろうか?自分がこの世に存在したことは、親族&友人などによって語り継がれ、人の心の中に生きてゆくのであろうが、いずれはそれも忘れ去られてゆく。それが人生といえばそれまでであるが、数百年経過した未来でも、自分が記したものが、人の手にとられて、見てもらうことができることを想像すると、ちょっとわくわくしませんか?

実際は、人のために残すというより、自分が生きてきた、これから生きていく歴史を記していくことは、自己満足で終わってしまうかもしれないが、それでも十分であると感じた次第です。皆さんも、何か記すことを始めませんか??

平成23年11月吉日
悟空の里主人 金森 悟

 

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●2011年09月 手を差し伸べること
●2011年08月 成長と脱皮
●2011年07月 節電努力
●2011年06月 出会うということ
●2011年05月 次の25年とは…?