2011年09月 手を差し伸べること

 ある朝、JR新宿駅構内の喫茶店でお客様との待ち合わせをした。しばらくすると中年の女性が来店し、私のすぐ横の席に腰かけた。常連なのか、店員も慣れた話し方をする者も・・・。詳しい様子を見ていたわけではないので、一部始終はわからないが、店員が親切に女性のSUICAを預かって、オーダーした飲み物の清算に。「残高が足りない・・・。」、彼女は自分の鞄からお財布を開けるが、それでも足りない?? SUICAとは別の定期を出すがそこにも残高はない。そのうちに女性は座り込み泣き出した。不足金額は200円程。
 さて、そこで自分の葛藤が始まった。たまたまお財布を忘れたということであれば、200円くらいであれば、私が出してあげようか・・・。でもそれは、相手のプライドを傷つけるのではないか? それでは、どんな方法がいいのか?? ある洋画で、お金を落として?困っている人の様子を見ていたジェントルマンが、その人の足元から、「落ちていましたよ!」とお金を拾い上げる(本当は自分のお金)ようなポーズをして、その場を助ける。というシーンが、よみがえった。それがいいかも!と、500円玉を自分の財布から取り出し、ズボンのポケットに入れて、タイミングをうかがっていた。しかし、実はこの女性、常習犯で、店員も追い出すわけにもいかず、来店するたびに同じことを繰り返しているのでは?? という疑問も湧いた。結果、その女性は、何も飲まずに立ち去って行った。さて、自分の行動があっていたのか?間違っていたのか?店員に、その女性の背景を聞いてみたくもなったが、思いとどめた。

 以前にも書いたが、阪神大震災の後、ボーイスカウトの子供たち(高校生)を連れて、兵庫県の芦屋公園にテントを張り、救援物資運搬作業をした。そんな中、被災された地元ボーイスカウトのリーダーが、「君たちは、何もせんでいい! 色々なところを駆け回って、この惨状を目に焼き付け、もし自分の住む地で起きた時の将来への教訓として学んでゆきなさい!」といわれた言葉。さらに、「被災した我々は、自分たちの力で、立ち直らなければならんのよ!!」・・・そのやり取りが、衝撃的な印象として今でも忘れられない。311の東日本大震災。多くのボランティアが、現地へ赴き、活躍されている。地震から半年、現地はどのようになっているのであろうか? まだ行方不明の方が残され、先の見えない不安の中、生活を続けておられる多くの人々。被災した状況から、まだまだ復興できない町村もあると聞く。弱者、ご高齢の方や幼い子供たちには、ぜひ手を差し伸べてあげたいと思う。しかし、厳しい意見になるとは思うが、地元の体は元気な仲間たちが中心となって、悲しみを乗り越えて、取り組んでいかなければいけないと思うのは私だけであろうか? 突き放すようで、冷たい印象もあるかもしれないが、将来に向けて、いかに早期に、復興&復活できるかは、彼らの行動に大きく影響するに違いないと感じる。

 10年近く前になるが、車いすに乗った女性アスリートと話した時、「日本は、車いすに乗っていると、押してあげましょうか?」と親切に声をかけてくれる。いちいち「自分でできますから、大丈夫です。」と断ることが大変と言っておられた。ところが、海外の事例で、アメリカでは、一般の人と同じに扱われ、過ごしやすいと。聞いたことを思い出した。(街のバリアフリーの環境も、整備している裏づけがあるが・・・)ただ、大きな段差など、どうしてもヘルプが必要な時は、「自らが声をかけて、助けてもらう。」と。

 手を差し伸べてあげることは、すばらしいことである。しかし、第三者的な立場から見ると、親切と自己満足、紙一重のところがあると思う。助けるほう、助けられるほうどちらにも、心構えが必要ではないか?老人介護の場面にも見られるが、小さなことでも、できるかぎり自力で行動し、生活してもらう。これが一番大切なポイントであると信じたい。

平成23年9月吉
悟空の里主人 金森 悟

●2011年08月 成長と脱皮
●2011年07月 節電努力
●2011年06月 出会うということ
●2011年05月 次の25年とは…?
●2011年04月 授かりものの旅立ち
●2011年03月 We are with you