2014年10月 断捨離

ウィキペディアによると、ヨガの「断行」、「捨行」、「離行」を応用して、人生や日常に不要なものを捨てること。「やましたひでこ」さんというひとの著書で発表され、「2010年の流行語大賞」に選ばれて、広がったと。また広辞苑には、記載がない新しい言葉のようである。

さて、ここ10年になるであろうか? 自分の部屋に始まり、家の中が汚い。元々、机の上が散らかっているのは、大嫌いだった自分がいるが、その処理能力&許容量をはるかに超えて、所狭しと物が置いてある。山積みになった書類、来客があるなど、時々によって、テーブルの上では邪魔になり、段ボール箱に一時避難をする。が、この一時避難の段ボールが、いくつも重ねられ、そのままに。たまに連休などに引っ張り出して、整理するのであるが、5個の段ボールが、3個に減るくらいで、なくなることはない。しばらくすると、また3箱増えて・・・。これに輪をかけて、昨年他界した両親の持ち物がある。もう一年以上が経過するが、当時のまま手付かずである。 たとえば、私が、小学校時代からのテスト&プリントなどが、それぞれ保管された段ボールが、長年の開かずの間のような二階の天井裏に保管されている。たまには空気を入れようと扉をあける際に、のぞいてみることもあるが、手をつけ始めると懐かしさいっぱいで、絶対に整理はできないので、そのまま扉を閉じてしまう。何年かに一度見かけることはあっても、整理しようとは、考える余裕もない。 ・・・と言っていると、なにも片付かない状況である。

部屋の片づけ、断捨離などなど、カリスマ主婦や、専門家が登場したり、本が出たり、このテーマについての需要は、非常に多い。裏返せば、やりたくてもなかなかできない壮大なテーマでもあるということであろうか?これらの情報は、気になってパラパラと目を通すことがある。その中には、「2-3ヶ月、一切見ることもないものは、すでに捨ててもいいもの。」など、当面必要のないものは、ずっと不要であるから捨ててしまおう。というストーリーである。捨て切れずに大事にしているものは多い。しかし現実は、持ち続けた行く末は、両親の遺品を見る限り、本人にしか分からない代物が多い。写真などは、両親の若かりし頃、自分たちが子供のころ思い出が詰まっているが、常時身近に置いてみるものでもない。趣味で集めた本やカタログ、そのまま捨ててしまうのは、もったいないと、再利用を期待して、古本屋さんへ持ち込んだり、また図書館へ寄付をしたり・・・。しかしものによっては、古すぎて、ゴミにしかならないという現実がある。旅行の記念に購入した小物、絵葉書、写真集など、そのまま大切に、箱のふたを閉めて、押入れにしまいこむだけ。第三者であれば、全く価値のないゴミでしかないのであろう。自分が生きているうちは、捨てられない。しかし見ることも、開けるもないもの。家中がそんなものにあふれて、新しいものがどんどん増えて、収納スペースを増やしたり、他所に確保したりする人もいる。 はてさて・・・。子孫に残す大切なもの。自分にそれほど価値があるわけでもない。鑑定団に出せるようなお宝があるわけでもない。思い出になる写真は、どんどん電子化されて、パソコンに向かわなければ、見返すこともない。それに意味があるのだろうかと思うことがある。 数年前、京都・金閣寺の修繕をされる方と話をしたことがある。書いたものを長年、大切に残そうとする究極は、「和紙に墨」だそうである。現代の世の中は、書類、図面などを電子化して残すことが常識化されている。数百年、数千年先に修繕記録、その手段などを継承してゆくには、方法は他にはないと。現実的に、コンピューターのシステム等が変われば、記録されたものは、見ることが出来なくなる。自分でも社会人になったころは、パソコンはなく、ワープロが出てきたころで、当時データー保存していた媒体は、すでに存在せず、引き出しの奥から出てくるフロッピーディスクなるものは、読み込む機械も周りにはない。パソコンのハードディスクに記録された写真データーは、パソコンの不具合で、電源が入らないに始まり、ハードディスクの読み込みができなくなってしまったこともある。

自分が生きている間の身の回りのもの、どのように片づけ、整理すればいいのか?永遠の課題でつきあいながら生涯を終えてゆくのであろうか? 私は、こうやっているというご経験があれば、ぜひお聞かせ願いたい。

平成26年10月吉日
悟空の里主人 金森 悟

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●2014年06月 歴史を知ること
●2014年05月 パワー不足・・・??
●2014年04月 表現力